こんにちは。
爽一郎です。
とても興味深い記事を読みました。
仕事を辞めるとなぜ老害になってしまうのか?を考察した記事です。
『それまで他人の目を気にして築き上げてきた社会的評価は、その人が本当の意味で人の目を気にせず、自分の好きにやる事で維持できる程には容易いものではない。
「前と同じような事をしている”はず”なのに、なんでみんな評価してくれなくなったんだろう?」
自由気ままにをキメた人は当然そう考えるのだけど、行動基軸がブレてるのだから同じことをやってる”つもり”でも実際にやってる事は全然違う。
こうして、他人の目から解き放たれた人からは能力が消える。
それに伴って、自尊心もなくなってゆき、だんだんと良心やモラルといったものが崩れ落ちてゆく。
その結果どうなるのか?それが老害だ。
老害とは”他人の目をビクビクと気にしたくない”という、私達の”なりたかった姿”の果てなのだ。』
仕事という評価される立場から解放され、好き勝手に生きられるようになった結果、自分の行動を是正できなくなって老害となる。
他人に評価されず、ビクビクせずに生きたいという願望が老害を生むのだと。
この記事の内容に得心しました。
我々は、評価されなくなると社会的にダメ人間になっていくのです。
仕事をしていると、責任があります。
責任が果たせなければ、周りから辛い視線を浴びせられます。
評価が下がるというやつですね。
よって、期待や責任を背負って、それにこたえようと我々は仕事に励みます。
そこから解放されたい、好き勝手に生きたい。
そんな思いになることは当たり前にあることでしょう。
好きなことを仕事にすべし!という呪文は、そんな重圧から解放されて、仕事のモチベーションを上げようという意図から発せられる言葉です。
ただ、先の記事の老害と同様、好きに寄せすぎると社会的にはダメ人間になります。
例えば、歌が好きで武道館ライブを夢見て、ギター片手に何年もフリーターをしている人。
歌がうまくもないのであれば、おそらくはよっぽど運に恵まれない限りか叶わない夢です。
残酷ですが、ほとんどの人の”大きな夢”は、運が伴わないと叶いません。
好きを仕事に、という観点とは異なりますが、会社という組織においても、したいことしかしない人はいます。
しんどい仕事は嫌。
自分がしたいことしかしない。
評価が下がったとしてもクビにはなりづらい日本企業において、そんな人は少なくない数います。
ぶら下がり社員だとか言われる人々ですね。
彼らは評価を気にしないので、無敵です。
好き勝手に振舞うが、評価は気にしない。
これは社会的ダメ人間です。
もちろん、叶わない夢を追うフリーターもぶら下がり社員も、見ようによっては幸せと言えます。
過去、こんな記事を書きました。
『 周りの意見を一切封殺して主観だけで生きられるなら、精神的に強い、幸せな脳になるかもしれません。
~中略~
分の好き勝手やって、人に迷惑をかけていたとしてもそれを気にしない事ができるなら、おそらく幸せになれる。』
周りの目や評価を一切気にせずに生きられるなら、幸せなのだと思います。
ただ、所属欲求や承認欲求を欲する社会的な我々人間の大多数は、きっと幸せにはなれません。
なにより、最も評価を無視して生きることの弊害は、”変化しなくなる”ことです。
変化とは、いわゆる成長というものです。
私は人が成長するには、下記の①~④のサイクルが必要であると思っています。
①知識への欲求
②知識の獲得
③知識の実践
④振り返り
簡単に言えば、こんなことできるようになりたい、知りたい!と思い、本などを読んで知識を得て、現実世界で実践し、どうだったか振り返る、ということ。
振り返るってどういうこと?と言えば、客観的にはどうだったか、という視点が必要です。
例えば会議のファシリテーションの本を読み、実際の会議で本に書かれていたことを実践したとしましょう。
実際に会議の進行中の参加者の雰囲気はどうだったのか?会議の目的は果たせたのか?などの結果を考えることになります。
もっと言えば、参加者に自分のファシリテーションがどうだったかの意見を求めたりすれば、それは完全に客観的な意見です。
それらの情報を元に、実践結果がどうだったのかを振り返り、また行動の是正のための知識が欲しくなり、知識の獲得へ向かいます。
評価を気にしないということは、振り返りをしないということです。
好き勝手振舞って、そのまま生きていくのですから。
評価から解放され、楽に生きるとはそういうことなのです。
評価されることは辛い。
評価を過剰に気にしてビクビク生きるのは辛い。
ですが、社会的に承認されたり、所属欲求を得て幸せになるには、評価を気にするというのは必要なことなのです。
本当に一人の世界で生きる覚悟がない限りは。
★終わり★