こんにちは。
爽一郎です。
精神的に強い人ってどんな人?
という話になった時、ある人がこう言いました。
「ふてぶてしい人。周りのことを考えない人。人の気持ちを考えない人。」
いわゆるサイコパス的な人のことです。
それを聞いたとき、なるほど、と思いました。
周りの意見を一切封殺して主観だけで生きられるなら、精神的に強い、幸せな脳になるかもしれません。
が、それは選ばれしものしかできないことである、とも思います。
■激臭ジャージの先輩
高校のころ、私は陸上部でした。
とても実力のある先輩がいました。人としてもちゃんとした人だし、勉強もできる。
が、一つ欠点があったのです。
とても、ジャージが臭い。
おそらくは練習で汗を吸ったジャージを、ロッカーにそのまま入れるという日々を続けていたのでしょう。
とてもその先輩のジャージは臭かった。
練習中も、みなが距離を開けてしまうほどに。
陸上とは息が上がるスポーツです。
その時に激臭スメルが近くでうろついているというのは、いわゆる地獄。
喉がからっからで見の前の水を飲んだら、激辛スープカレーだった時と同じ衝撃を味わうこと間違いなしです。
ですが、先輩はそれには気づいていない様子でした。
容赦なく近づいてくるし、何日もそんな激臭ジャージで過ごせるなんて、本人は気が付いてないとして思えません。
こういうのは誰も指摘しづらくてできないですし。
その先輩は、自分では気が付かず、周りに迷惑をかけていることを知らずに生きていたのかもしれません。
先輩は良い人間でした。だから、おそらく周りに迷惑をかけていると知れば気に病んでいたかもしれません。
知らずにいたということは、きっと幸せなことだったのだろうと思います。
臭いジャージを身にまとっていても、自分は尊敬されている先輩だという情報しか得ないようなアンテナが張られていれば、都合のよい情報しか頭は察知しません。
実際、その先輩は実力もあり、いわゆる優秀な人間だったので、『自分が尊敬されている』という情報は得られたことでしょう。
そんな情報だけを無意識に得ているなら、きっと幸せです。
自分が迷惑をかけているということには気が付きません。
実際、人はそういう特性を持っています。
認知神経科学者であり、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン教授のターリ・シャーロット教授は著書の中でこう主張しています。
『新しいデータを提供すると、相手は自分の先入観(「事前の信念」と呼ばれる)を裏づける証拠なら即座に受け入れ、反対の証拠は冷ややかな目で評価する。私たちはしょっちゅう相反する情報にさらされているため、この傾向は両極化の状況を生み出し、それは時を経て情報が増えるたびに広がっていく。』
この本には、人が自分にとって都合の良い情報しか得ないことを様々な例を持って説明しています。
これは、確証バイアスと呼ばれる、我々の脳が持つ癖です。
周りから得られる情報のうち、自分の信念に合うものだけを採用するという脳のもつ特徴です。
簡単に言えば、信じたいもの情報だけを得て、自分にとって都合よく解釈することです。
仕事で傲慢な態度をとっても、成果が出ている人がいたとしましょう。
その成果のみに着目し、周りの苦悩の声を気にせずに生きていけるなら、きっと幸せでしょう。
臭いジャージを着た優秀な人がいたとして、自分の優秀さのみに関する情報だけを仕入れて生きていけるなら、きっと幸せです。
自分の好き勝手やって、人に迷惑をかけていたとしてもそれを気にしない事ができるなら、おそらく幸せになれる。
■客観性を全く持たないというのは、普通の人には無理
ただ、そんな自己中な生き方は健全ではありません。というよりも、できません。
冒頭の「精神的に強い人って?」という話に「人の気持ちを考えない人」と答えた彼も「そうはなりたくはない」と言ってました。
それに、人に確証バイアスがあったとしても、完全に周りの情報を気にせずに生きることはできません。
なぜなら、人には共感する力があるからです。
周りからの陰口があれば気になります。
なんだか、そっけない態度を取られたら気になります。
確証バイアス同様、人の気持ちに共感する機能も脳は持っているのです。
共感するというのは、相手の感情を真似る脳の機能が起こすことで、ミラーニューロンという新規細胞によるものです。
どうしても、人の感情に、普通の人であれば共感してしまうのです。
だから、自己中で人のことを考えずに幸せになる、という生き方は、それこそサイコパス的な特殊能力を持つ人でなければできないのです。
人が周りからの共感を無視できないことは、人の欲求からも裏付けされています。
有名なマズローの5段階欲求説では、承認欲求が上位の欲求として定義されています。
承認欲求とは、すなわち人からどう思われているか、を検証したうえで満たされる欲求です。
さらに高次な自己実現欲求も、自己実現を何で測るかと言えば他者、社会的な影響を通じてでしょう。
他者からどう思われるか、という視点は社会的生物の我々には無視できないものです。
完璧な自己中はきっと幸せです。
が、社会的に健全な生き方にはそぐわないし、普通の人にはできなさそう。
では、どうすれば幸せになれるのでしょう?
■結局、やりたいことを見つけろ、ということに…
組織心理学者のターシャ・ユーリック氏は、成功者にはある特徴があると言います。
それは、自己認識が高い、ということです。
『自己認識とは、要するに、自分自身のことを明確に理解する力──自分とは何者であり、他人からどう見られ、いかに世界へ適合しているかを理解する能力だ。』
主観的な自分と、他者から見られた時の客観的な自分。
その差が小さい人ほど成功していると言います。
ということは、極論で言えば下記の状態が成功し、幸せな状態になるのではないかと思います。
主観的に好き勝手に振舞っても、客観的に嫌がられずに周りから評価される状態。
『好き勝手』を『やりたいこと』と言い換える。
『周りから評価される』ということを『社会的に必要なこと』と言い換える。
そうすると、結局、Will(やりたいこと)とMust(すべきこと)が重なっていることをせよ、となります。
いわゆる、好きなことを仕事に、という結論ですね。
いやぁ、なんかありがちな話になってしまいました。
が、好きなことを仕事に、なんて全ての人ができることではありません。
■私の幸せ、よりも私たちの幸せを考える
そう、好きなことを仕事にすることなんて、そうそう簡単ではありません。
一握りの人だけができることでしょう。
多くの人には手に入らない。では、そんな凡人は幸せになれないのでしょうか。
先ほど述べた、幸せになれる状態。
主観的に好き勝手に振舞っても、客観的に嫌がられずに周りから評価される状態。
その状態を簡単に手に入れることはできないのかもしれません。
ですが、その状態に近づけるための考え方、というものならあります。
自分の幸せのために振舞っても、客観的には評価されればよい。
つまりは、自分と周り、両方の幸福を考えれば良いのです。
『私の幸せ』よりも『私達の幸せ』ということです。
仕事的な言い方をすれば、利己的さよりも利他的にチームの成果を考える、という思考です。
結局それが自分の幸せにもなる。
幸せの主語の視野を広げることが、幸せになることなのだと、私は思うのです。
いや、それもハードル高い…そんな考えもあるでしょう。
ですが、好きなことを仕事にするよりは、正直、意識の問題だけなので、誰でも簡単にできます。
もし、そんな心の余裕ないわ、という場合は、まず休息しましょう。
疲れてたら、主語を私たちにすることなんてできない。
おそらくそれは正しいです。
思考に余裕をもって、主語を広げること。
その余裕のために休息をとる事。
それが、意識だけで幸福度を上げる方法なのです。
★終わり★