凡人が成果を出すための習慣

残業ゼロで成果を出すには、どうしましょうか?

自己啓発がしんどいという人に読んで欲しい話

こんにちは。
爽一郎です。
 
私はこうしてブログを書いています。
内容はいわゆる”自己啓発”に分類されるようなものなのかもしれません。
マネジメントがどうとか、コミュニケーションがどうとか。
 
 
自己啓発とは何かといえば、ある意味マニュアルやガイドラインです。
 
こうすれば社会的には成果が出せるよ!
人間関係うまくいくよ!
英語が話せるようになるよ!
 
そんなマニュアルを、私も日々したためているのだろうと思います。
 
基本的に、書店で平積みされた自己啓発本なんてのは、マニュアルです。
こうしたら上手く行く、というマニュアルなのです。
 
そんな自己啓発的文章を書きながらも、私は”自己啓発”という言葉があまり好きではありません。
息苦しさを感じるのです。
 

■マニュアルを押し付けられるのはつらい

その通りにやれば上手く行く。
そんなことが自己啓発本には書かれているかもしれません。
 
ですが、万事うまくいくようなものはありません。
マニュアルやガイドラインとは、あくまでも汎用的に書かれた当人が考えるベストプラクティスでしかありません。
すべての人に合致するかといえばそんなわけない。
 
ぴったりハマる人が少しはいるかもしれません。
しかし、一部は使えるが大部分は使えないとか、全く合わないなんて人もいるでしょう。
 
書籍のアマゾンレビューで全員が星5をつける本なんてありませんからね。
(評価自体が少なすぎるものは除いて…)
 
私もこうして自己啓発的マニュアルを書きつつも、それが万人には合わないと意識しています。
 
それでも、自己啓発本に目を通していると、
『数多の自己啓発やビジネスのセオリーがあり、それを守れなければ成果が出ない。』
そんなことを自己啓発本に言われているように感じて、息苦しさを感じることがあります。
 
できていない自分への焦り。
有能な著者たちとのギャップ。
 
そんなことを痛感し、息苦しさを感じる。
 
それが、冒頭で私が述べた『自己啓発』という言葉に対する忌避感なのです。
 
第155回芥川賞受賞作品の『コンビニ人間』。
この物語は、普通の人間としては生きられない主人公が、コンビニというマニュアル化された社会でのみ普通の人間になれる、という話です。
コンビニを辞め、基準となるマニュアルがなくなった途端に生き方を見失うという場面があります。
 

 
普通に生きられない主人公が、”普通の人生”に近づくためにマニュアルに添って生きようとする。
 
”普通の人生”を求められるという圧力。
 
この息苦しさが世の中にあり、共感される。
それが芥川賞受賞の背景にあるのでしょう。
 
私は好きで呼んでいるはずの自己啓発本にも、時に圧力を感じずにはいられないのです。
 
こうならないと、お前は大変なことになるぞ、と。
 
 

■気楽にマニュアル改変すればよい

マニュアルやガイドラインはすべてが使えるものではなくても、使える部位がある。
それがマニュアルの良さというものです。
 
ただ、自己啓発本はなるだけ分かりやすい説明で、こうしたらいいよ!しないと損だよ!とせめてくる。
その通りにこなせない自分の肯定感を下げてくる。
 
…いや、もっと気楽でよいのです。
 
どうせ自己啓発本なんて他人の知識です。
自己啓発本の中身は実践し、身銭を切って初めて良し悪しが分かる。
試して、合わないものは捨てれば良い。
 
トレーダー、大学教授、エッセイストであり、現代の複雑な社会における意思決定についての哲学者であるナシーム・ニコラス・タレブ氏がこう述べています。
 
語る者は実践するべきであり、実践する者だけが語るべきである。
 ただし、数学、厳密な哲学、詩、芸術など、現実を型にはめるような明白な主張をしない自己完結した活動は除く。偉大なゲーム理論家のアリエル・ルービンシュタインはこう考える。「理論でも数学的表現でも、好きなようにやってくれ。ただ、実世界の人々にその応用方法を教えるのだけはやめてくれ」。つまり、身銭を切っている人々には、自分で必要なものを選ばせろ、ということだ。
 

 
 
誰かの知識(自己啓発本の内容)は、実践者が好きに使える部分を選べ、ということなのです。
 
 
こうして私は自己啓発めいたブログを書いていますが、気軽に口に含んで、食べられそうなら食べて、口に合わなければ吐き出してもらえば良いのです。
 
一度食べようとさえしてみれば、何か自分に得られるものがあるかもしれない。
 
気軽にマニュアルを改変していけばいい。
自己啓発なんて、そんなぐらいでよいのです。
 
 
★終わり★