こんにちは。
爽一郎です。
時に、どうせあなたに私の気持ちなんて分からない、なんて思うことがあります。
こちらの考えを分かってもらえないとき。
批判ばかりされるとき。
運転をしていて、助手席からいろいろ運転について指摘される。
例えば、「車、右に寄りすぎじゃない?対向車来たら危ないんじゃないの?」とか。
その発言者が運転免許を持っていなかったら、
「なんで良く知らないのに指摘してくるの?運転したこともないくせに」
と思ってしまう。
仕事でも、いろいろ指図されて「こっちの気も知らないで!」とイライラすることもあります。
ただ、そういうとき、同時に、自分の説明が不足しているんだな、とも思います。
例えば、プロジェクトマネジメントをしていて、キーマンとなる関係者からプロジェクトについて指摘されたとき、
「詳細も分かっていないのに、何言ってんだ」
と考えてしまうかもしれません。
ただ、それは別の見方をすれば、こちらの説明足りておらず、立場や詳細を理解されていないということが原因なのです。
運転について指摘されれば、
「危なく感じたかもしれないけど、左に電信柱もあるし、対向車が来ればその時に左に寄るから今はこれでいいの」
と返して理解してもらおうとするのが建設的な対応なのです。
とは言え。
相手にこちらの気持ちや状況を完全に理解してもらうなんて、とても難易度が高いと最近感じました。
そんなことは無理だと。
だからこそ、理解してもらうための説明や、逆に理解しようとする姿勢がないとお互い共感はできないのだと。
相手に勝手に察してもらって共感してもらうことなんて不可能です。
また、逆に相手の気持ちを理解するという立場で考えても、ちょっとした理解では相手に共感なんてできないのだろうと思います。
出来たと思ったとしても、それは、なんとなく表面的に理解して共感した気になっているだけです。
■子供がけいれんしてビビった話
話は変わります。
先日、数日間39度を超える熱を2歳の我が子が出していました。
熱が出て2日目の夜のこと、急に我が子がけいれんを起こしたのです。
初めての経験で、夫婦でパニック。
急遽救急車も呼ぶも、間違って110番へ電話してしまったりしつつ、病院へ搬送してもらいました。
結局、熱性けいれんというモノで、小さな子供は高熱を出した時に20人に1人ぐらいは起こすような、病院側からすると「良くある症状」ということでした。
ただ、けいれんしたその時は、パニックになりました。
良くある症状だなんて知らない我々夫婦は、呼吸は途切れ途切れになるわ、白目むくわな我が子をみてそうならないはずもなく。
後で妻と話をすると、死すら連想したと。私もそうでした。
子供の病気や、小さな子供ほどけいれんを起こしやすいということは、前からリスクとしては知っていました。
子供を持つ親なら、だれしもそんなことは考えるでしょう。
ただ、本当に自分事として考えられていられたか。
そう問われると、Yesとは言い難いです。
我が子の死を連想する経験の後、少し過保護になりました。
そして、ニュースやドキュメンタリーでの子供の病気について、共感して涙をこらえることが増えました。
以前に比べ、病気の子供を持つ親、に対して共感できるようになったことは確かです。
前々から子供を持つ親として、土台はあったはずなのに。
結局経験によってしか本当の共感は得られないのかもしれません。
以前、共感には経験が必要と言う旨を書きました。
『単純に考えると、自分の経験と重ね合わせられるから共感できるのだと思います。
私も子供ができたから、昔は泣かなかった「はじめてのおつかい」で、自分の子供と重ね合わせて感動してしまうわけです。
つまりは、経験が増えると共感しやすくなるということでしょう。』
(上の記事の趣旨は、共感には経験のみではなく、基本的な認知力も必要、という趣旨の記事ではありますが)
経験しないと、本当の共感はないとは言えるでしょう。
■完全に分かり合うことはできない
少し冒頭の話に戻します。
「どうせこちらの状況なんて知らないくせに」
この発言は、相手が自分の状況を分かってくれない、という点から出てくるものです。
言い換えれば、相手が自分と自分に関連することを理解して共感してくれない、ということ。
同じような経験をしてきた人からは、しっくりくる指摘が来ることが多いでしょう。
立場や経験が異なる人からの指摘ほど、「なんでそんなこと言うの?」感がでてくるのではないかと思います。
共感が経験から来るものだとしたら、
「どうせこちらの状況なんて知らないくせに」
という発言を無くそうと思えば、こちらのことを何もかも知っている、土台が同じ人としか議論ができないことになります。
ただ、それはただの締め出しです。
認識が同じ人としか話せないなんて、何の広がりもないでしょう。
例えば、LGBTについての諸議論。
LGBTではない人がLGBTに関する議論に参加したとしましょう。
「あなたはLGBTではないから、本当の共感はない。
LGBTのことを理解できないのだから、表面的な意見しか言えない。
だから議論に参加するべきじゃない」
そんなことを言ってしまえば、限定された人しか議論には参加できません。
視点が足りず、議論の広がりはありません。
どうせ責任の少ない一般社員にマネージャーの気持ちなんて分からない。
どうせ上司には最近の若者の気持ちなんて分からない。
そんな気持ちを抱いたとしても、口に出すべきではありません。
理解してもらうためには、そんな各人の”属性”で線引きしてしまうべきではないのです。
マネージャーの立場や気持ちを一般社員に分かるように説明する必要があります。
若者の立場や気持ちを上司に分かるように説明する必要があります。
ただし。
それでも、本当に理解してもらうことは、おそらくできません。
子供の死を連想させる恐怖は、実際に経験しなければきっと分かりません。
もっと言えば、我が子は結局良くあるけいれんだっただけの私が、もっと重い病状の子供を持つ親の気持ちはきっと本当には理解できないでしょう。
だから、伝える側も受け取る側も、エネルギーを費やさないと本当の理解はないのだと思うのです。
『わかりやすさの罪』という本にこんな記述があります。
『河合隼雄『こころの処方箋』(新潮文庫)が教え諭すことのひとつは、人の心を理解することはできないという、なかなか清々しい諦めである。55章に分かれた1冊は、まず「人の心などわかるはずがない」から始まる。臨床心理学を専門にしていると、他人の心がすぐにわかるのではないかと言われるが、「人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っているところが、専門家の特徴である」という。』
そもそも、完全に理解し合うということは無理。
その前提で、エネルギーをかけて、相手にうまく伝えて、または相手を理解しようとして、歩み寄っていくしかない。
「どうせこっちのことなんて分からないでしょ?」
そうつっぱねる前に、難しくとも理解してもらおうとする、そのエネルギーをかけたか?と自分に問うべきなのです。
★終わり★