凡人が成果を出すための習慣

残業ゼロで成果を出すには、どうしましょうか?

子供の劇で思った。評価は成果で測られるべきだが、プロセスを無視してはならない

こんにちは。

爽一郎です。

 

数か月前に4歳の我が子の劇を見ました。

幼稚園の行事として催されたそれは、オオカミと七匹の子ヤギの劇でした。

我が子は3番目に食べられる子ヤギの役。

私の子供は同い年の子供の中では体が大きいので、より体の小さいオオカミに食べられるというヘビが大きいうさぎを丸呑みするような弱肉強食を感じました。

 

なんにせよ、めっちゃかわいい。

そして、歌って踊る我が子を見て、感動しました。

 

と、親バカエピソードを語りたいわけではありません。

ここで、成果とプロセスの関係を考えさせられたのです。

 

私は子供の劇には成果なんて求めてはいません。

劇としての成果が何かと言えば、エンターテイメントとしてめっちゃ面白いとか、話に感動するとかでしょう。

でも、エンターテインメントとしては全く面白くはありません。

オオカミと七匹の子ヤギなんて、話は知っています。

それに、子供の劇なので、正直何を言ってるか分からない点も多いです。

体の大きさからしても、我が子が子ヤギの役というのはミスキャストですし。

劇の成果はと問われれば、大したものでは無いというのが答えです。

 

ですが、子供ががんばっている、ということを感じて私は感動しました。

我が子はがんばっただろうな、というプロセスを想像させ、感情が動かされたのです。

 

■仕事は成果が全て

というわけで、成果とプロセスの話をしましょう。

 

仕事というものは、成果で測られるべき。

それは、現代経営学の父たるドラッカーが提唱しました。

 

組織構造は、組織のなかの人間や組織単位の関心を、努力ではなく成果に向けさせなければならない。成果こそ、すべての活動の目的である。専門家や能吏としてでなくマネジャーとして行動する者の数、管理の技能や専門的な能力によってでなく成果や業績によって評価される者の数を可能なかぎり増やさなければならない。

 成果よりも努力が重要であり、職人的な技能それ自体が目的であるかのごとき錯覚を生んではならない。仕事のためではなく成果のために働き、贅肉ではなく力をつけ、過去ではなく未来のために働く能力と意欲を生み出さなければならない。

 

 

努力よりも成果。

がんばりなんてものに着目せず、成果で評価すべき。

私もそう思います。

 

あの人は成果は出てないけれど頑張ってる。だから、高い評価を上げるべき。

努力したから、認めてよ。

そんなことは企業という稼ぐことが存続条件である世界においては、通用しません。

プロセス評価というものもあるでしょうが、成果の方に重きが置かれているでしょう。

外資系は顕著で、成果が出てないと居場所がなくなると聞きます。

結局、最終的には結果が全てである。それは事実です。

 

■それでもプロセスも評価すべき

とは言え、成果を挙げるのは人の活動であるため、人の心理には配慮すべきである点についてもドラッカーは述べています。

 

しかし同時に、組織は人の集合である。人には、それぞれの理想、目的、欲求、ニーズがある。いかなる組織であっても、メンバーの欲求やニーズを満たさなければならない。この個人の欲求を満たすものこそ賞や罰であり、各種の奨励策、抑止策である。給与のように定量的なものもある。しかし、個人の欲求に応えるための環境そのものは定量的ではない。定量化は不可能である。

 ここにこそ、組織の本当の管理、すなわち一人ひとりの人間の姿勢と行動の誘因となるべきものがある。人はいかに賞され罰せられるかによって左右される。彼らにとって、賞罰こそ、組織の目的、価値観、そして自らの位置づけと役割を教えるものである。

 

ドラッカーは人の姿勢や行動を誘因するために賞罰が必要と述べました。

この賞罰で、ドラッカーの言う『個人の欲求に応えるための環境』を整えるのことに着目すると、プロセスが全く無意味というわけではないと、私は思うのです。

 

個人の欲求に応えるための環境』は、つまりは人のやる気を意識した環境です。

成果だけを見て賞罰を与える、つまりは評価する環境が、個人の欲求に応える環境足り得るでしょうか?

きっと、そうではありません。

プロセスにも着目し、評価をすることは必要なのです。

 

それを感じたのが、先ほど述べた子供の劇です。

 

正直、劇の成果は上がっていません。

ですが、劇を通じて感じた「子供ががんばった」というプロセスは、明らかに私に作用し、ポジティブな印象を与えました。

私に生きる活力、やる気を与えました。

 

社会のために何かをするには結果が全て、ではありますが、プロセスは何かを一緒にする人に対して明らかに影響します。

 

リーダーがリスクをとってチャレンジする姿勢を見せていれば、メンバーも見習ってチャレンジするかもしれません。そのチャレンジの結果は、良い成果がないとしても。

チームメンバーが建設的に議論をしていれば、同じような対応をしよう思う。そんなこともあるでしょう。

同僚が人の話を熱心に聞くのを見て、同じように自分もやってみよう、なんて思うこともあるでしょう。

そんな「やる気を与える」のような良い影響を及ぼすプロセスを取る人は、成果はさておいて評価はすべきです。

 

逆に、成果を上げていてもさんざん怒鳴り散らすプロセスを行う人がいれば、周りは憔悴することでしょう。

そんな「やる気」を下げる悪い影響を与えるプロセスを取る人は、成果はさておきいくぶん評価を下げるべきです。

 

同然のことですが、周りの人の言動は、我々の感情に作用します。

 

認知神経科学者のターリ・シャーロット氏はこう述べています。

 

人間の脳の大部分は、感情を喚起する出来事を処理し、何かしらの反応をすべく設計されている。感情に訴えるようなことが起きると、扁桃体(興奮の伝達に重要な脳の領域)の働きが活発になる。扁桃体は脳の他の部分に「警告シグナル」を送り、そのとき行っていた活動をすぐさま変化させる。

 

 

 

この扁桃体により、我々は感情で動かされます。

我々が感情を動かされるには、二つの経路があるとシャーロット氏は言います。

 

周りの感情を察知して我々に周りのそこには主に二つの経路がある。一つ目は無意識の模倣によるものだ。人間が、他人の仕草、声色、表情を常にまねてしまうことはよく知られている。これは反射的なもので、あなたが眉を少し上に動かせば私も同じようにしてしまいがちだし、あなたが息を弾ませていれば私の呼吸も速くなりやい。

 

〜中略〜

 

二つ目の経路は、模倣ではなく単に感情が刺激されたことに対する反応である。これは至極単純だ。誰かが怯えた顔をしているときは、多くの場合、何か恐ろしいものがあることを意味している。

 

扁桃体により、人は周りの感情を模倣します。

これが感情が動く1つ目の経路ですね。

 

また、私が子供の劇を見たときのように、単純に感情的な刺激を受けるというのが2つ目の経路です。

 

どちらにせよ、周りの言動から我々は感情を刺激され、動かされる。

 

同じ本に書かれたある研究では、メンバーが不機嫌に振る舞うとチームのパフォーマンスが落ちるという観測結果があります。

 

ある研究では、学生のグループが協力して課題をこなすよう求められた。実験者側は学生たちに知られないよう、それぞれのグループに演劇科の生徒を紛れ込ませ、上機嫌もしくは不機嫌にふるまうよう指示した。予想に違わず、演劇科の生徒の機嫌は周囲の雰囲気を一変させた。だがそれだけではない。雰囲気のみならず、行動にも影響が現れたのだ。上機嫌な生徒を紛れ込ませたグループは、協力し合うことは多いが衝突は少なく、優れたパフォーマンスを見せた。不機嫌な生徒を投入したグループは、課題の出来もずっと悪かった。

 

行動、プロセス、努力というものは、周りに影響をするという点で評価されるべきなのです。

成果だけの評価では促せない、「チャレンジする可能性のある人」がチャレンジしやすい環境を作ることができる。

 

結果的にそれがドラッカーの言う人に焦点を当てたマネジメントにつながり、組織の成果につながる。

ただ、周りへの影響の評価なんてすぐに成果にならないので、企業としては優先できないというだけ。

長期的な成果、健全な成長、そんな視点で見るとプロセス評価は必要なものではあります。

 

あくまでも成果ありきの話なので、プロセスの評価を全面に押し出すべきかといえばマネジメントとしては誤りなのでしょう。

が、プロセスにおけるがんばりや努力なんて無意味、というのは暴論なのだとも思います。

 

プロセスを明らかにし、評価することは、明らかに成果に影響する。

がんばりを評価することも、がんばりを見せることも、無意味ではない。

ただ、それは成果のためであるという視点を忘れない限りは。

 

 

★終わり★