みなさんこんにちは。
爽一郎です。
いきなりですが、足を骨折しており、松葉杖で生活しています。
会社でも、家でも、公共スペースでも、みなが協力してくれます。
ドアを開けてくれたり、昼ご飯のお盆を代わりに運んでくれたり、電車の席を変わってくれたり。
私は誰かの協力なしには、今は生活することができません。
感謝しかありません。
そんな生活なので、感謝について考える日々が続いています。
今日の主な内容は、下記です。
「感謝を成果の報酬として考える人がいるけれど、感謝は行動に対するお礼である。」
■松葉杖生活は周りの人への感謝満載
松葉杖の生活、なんて特異な状況になったことで、これまでされなかった親切を受けることが増え、感謝を覚えているのだと思っています。
もし、何年も松葉杖だと、そんな親切にも慣れてしまい、感謝しなくなってしまうのかもしれません。
(なお、私は一ヵ月語には松葉杖生活から卒業する予定です。)
席を譲られても感謝の言葉一つない老人もいますよね。
感謝しないような人間にはなりたくないものですが、そんな人たちを見ると、「やってもらって当然」という感覚に人はなってしまうのかも、と考えてしまいます。
そこから、今でも自分が感謝すべきなのに、松葉杖生活を何年もしているかのように慣れてしまい、感謝していないものというものがあるのでは、とふと思いました。
松葉杖生活で周りの人々に感謝しまくりの日々ですが、感謝はもっとカジュアルで、もっと気楽に出して良いものだと思っています。
ですが、なかなか感謝ってできないものです。
特に、仕事などの、成果を求められる状況においては。
■仕事においては感謝量は少ない気がする
仕事では、お金が発生します。
そして、お金は成果に対して支払われるものです。
となると、お金を出しているのだから、そのための業務は全て「やってもらって当然」の行動になります。
仕事におけるすべての行動は成果を出すための行動であって、お金のための当然の行動ではあります。
時に、お金に比べてとんでもない成果を出すと、特別に感謝されたりはします。顧客満足度飛び抜けまくり状態ですね。
が、はやりお金に見合った成果の範囲内の行動は、あまり感謝されません。
と書きましたが、これはあくまで私の感想です。
統計取ったわけでもないですが、私のこれまでの仕事経験では、とびぬけた成果を出さない限りは、感謝、いわゆる口だけではない「ありがとう」の気持ちを抱く人はあまりいない気がします。
何をやってもらっても、仕事だから当然じゃん、というスタンスの人。
いませんか?
そんな人たちにとって、感謝は特別な成果に対する報酬として与えるものになっているのです。
■感謝は報酬ではなく、自発的な行動へのお礼である
ただ、私はこの考えにはなりたくないなぁ、と思うのです。
松葉杖生活で思うのですが、周りの人がとってくれた行動は、私の役に非常に立ちます。
これは、私にとって成果がある行動をしてもらっていることになります。
もし、特別な成果に対しての報酬が感謝なのだとしたら。
金銭の授受がないので、本来は私は彼らの親切な行動を受けることはありません。
にもかかわらず、彼らは親切にしてくれる。ゼロコストに対しての成果に、私は感謝をしているのかなぁ、なんて考えました…。
が、おそらく私は彼らが親切にしてくれた後、相当のお金を払ったとしても、感謝していることでしょう。
私はおそらく、彼らの自発的な行動自体に感謝をしているのだと思います。それが成果に結びつこうがつかまいが。
もし、誰かが私に席を譲ろうとして立ったとして、万が一謎の人がその席にすぐに座ってしまって私が座れなかったとしても、その席を譲ろうとした人に私は感謝するでしょう。
心から。
感謝なんて、自分がありがとう、と思ったらそれで感謝なんじゃないの?何をごちゃごちゃ小難しく考えているの?
そういわれると、そうかもしれません。
ですが、特に仕事においては「自分がありがとうと思う」その状態の多くが、「成果だしてくれてありがとう」な状態なのです。
つまり、成果がでていないと、感謝しない、そんな考えに陥りがちなのです。
が、私は思います。
成果にかかわらず、自発的な行動というものには感謝をすべきだと。
なにかを良かれと思ってしようとした、してくれたことには、成果の良しあしに関わらず感謝をしたいのです。
その結果が悪かったならば、それは感謝した後に行動の反省会をすればよいのです。
感謝は成果への報酬としてではなく、もっとカジュアルに、自発的な行動に対してなされる。
そんな状況が、チャレンジ精神や行動力を上げる環境を形成するのでは。
その前に、人として、そうありたいなぁと、骨折した足を見ながら思うのです。
★終わり★