凡人が成果を出すための習慣

残業ゼロで成果を出すには、どうしましょうか?

なぜ建設的な議論ができない人がいるのか

みなさんこんにちは。

爽一郎です。

 

建設的な議論ができる人と話しているときは、心が楽です。

逆に、そうでない人と話すときはエネルギーを使います。

批判ばかりされたり、感情的になって論理的に話せなかったり。

 

物事は前に進めたいもの。

そのためには建設的な議論が当たり前のように必要で、それが有効であることはみんな理解はしているはずです。

ですが、建設的な議論ができない人は確かにいます。

なぜ、建設的な議論ができない人々がいるのでしょうか。

 

■妻が教えてくれた、喧嘩腰の会議

妻が、喧嘩腰の人々を目撃した話をしてくれました。

 

妻は、ある商品の社内説明会に参加したらしいです。

その説明会の質疑応答で、一部の人が喧嘩口調で質問をしていたとのこと。

 

「これって、どういう意味なんですか?ちゃんと考えているんですか?」

 

みたいな口調だったと言います。

応答していた説明者も、喧嘩口調で応戦していたようで、説明会は恐ろしい雰囲気だったということです。

 

ああ、想像するだけでも辛い。

(はたから見ていると面白いかもしれませんが。)

 

これを聞いて、私は思いました。

 

「建設的な議論ができない人々だなぁ。」

 

質疑応答で質問した人は、「教えてやっている」という気持ちなのかもしれません。

応答側は、負けじと「知っとるわ」という気持ちで答えたのかもしれません。

それよりは、もっと良くするには何をどうしたほうがよいかを導き出すために、明確化の質問と提案をするほうがよっぽど良いはず。

マウンティングしても、物事は進まない。

 

■人はめんどくさいものを単純化してさぼろうとする

冒頭で述べた通り、建設的な議論ができない人は、確かにいます。

日本中、どこにでもいるでしょう。

批判しかしない人。

評論家みたいな正論しか言わない人。

とにかく何も話さない人。

怒りだしちゃう人。

 

なぜ建設的に議論できない人々がいるのか。

それを私は妻の話を聞いたのちに考えていました。

 

完璧に自分に害がない状態でないと仕事を引き受けたくないから、批判をし続ける。

非の打ちどころのない正論を言っていれば、自分の非はないから正論をふりかざしてしまう。

自分が仕事を増やされたくないから、話しに入ろうとしない。

理由はいろいろあると思います。

 

が、根本にあるのは「めんどくさい」なのではないかと気が付きました。

 

しばしば感情的になって、論理的、建設的に話し合えない人がいます。

感情に任せて話すのは、脳としては楽なのです。論理的に感情を抑えて話すのは「めんどくい」。

 

正論ばっかり言う人は、現実的な案を現状を捉えて考えることが「めんどくさい」。

リスクのある発言をして、後に責任をとらされるのも「めんどくさい」。

何せ、正論は間違っていないのですから、言っておけば安心。楽なのです。

 

批判ばかりする人は、あるべき姿を考えるのが「めんどくさい」。

目についた悪い点を指摘するのは簡単で、楽なのです。

どんな状態が今の最善だから、こうしたほうが良い、という建設的な視点で考えるのはエネルギーが必要ですから。

 

人間の脳は複雑な情報処理を常に続けています。

エネルギーを節約するため、「めんどくさい」思考は回避しようとします。

 

ノーベル賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマン氏は著書でこう述べています。

 

だが問題が難しすぎて、スキルを総動員してもよい解決が思い浮かばないときにも、直感は働く。そしてすぐに答を出してくるが、しかしそれは、もともとの問題に対する答ではない。あの投資責任者が直面した問題、すなわち「私はフォード株を買うべきか」は難しい。だが、もとの問題と関係はあるがより簡単な質問「私はフォードのクルマが好きか」になら、すぐに答は出せる。そしてこの答が選択を決めた。これが、近道探しをする直感的なヒューリスティクスの本質である。困難な問題に直面したとき、私たちはしばしばより簡単な問題に答えてすます。しかも問題を置き換えたことに、たいていは気づいていない。

 

 

我々人間には、「考える」というエネルギーを抑えるために、難しい物事を簡単な物事に置き換えて考えるヒューリスティックという機能があります。

「フォードの株を買うべきか」は難しい問いかけなので、脳内で「フォードの車は好きか」という質問に置き換えて意思決定をしてしまうのです。

 

建設的な議論ができない人たちは、このヒューリスティックに支配されているのです。

面倒なものを「嫌いなもの」に単純化して置き換えて、攻撃的になっているだけなのかもしれません。

面倒なものを「正しくないもの」に単純化して、正論をふりかざすのかもしれません。

 

■成果を出すには、めんどくささに立ち向かう必要がある

日本は過去からの経緯で、時間に対して対価が払われているという印象がまだあります。

毎日8時間、一ヵ月働けば給与がもらえる。

時間に対しての報酬を仕事ととらえると、「建設的な議論」だろうが「攻撃的な質問」だろうが、同じ時間を使っているので同等の仕事をしていることに変わりはありません。

攻撃的な議論だとしても、対価は支払われます。

 

ですが、実際は成果に対して払われるべきものです。

成果を高めるには、同じ時間にどう過ごすかという、行動の質を上げる必要があります。

「攻撃的な質問」から「建設的な議論」に切り替えることは、行動の質を上げる行為です。

攻撃的な質問をする人の8時間と、建設的な議論をする人の8時間では成果が異なるのは、想像がつくのではないでしょうか。

 

かつて、上司に言われたことがあります。

 

「手を動かすことに手を抜いて良い時はあるが、考えることに手を抜いてはいけない」

 

「めんどくさい」ことに向き合い、考えること。

それが成果につながるのです。

成果に対して対価が払われ、行動の質を全ての人が考える時代が来ることを、私は切に願っています。

 

 

★終わり★