凡人が成果を出すための習慣

残業ゼロで成果を出すには、どうしましょうか?

健全に働き、幸福度を上げるには、個性を求めるべし

こんにちは。

爽一郎です。

 

結構前ですが、Twitterでバズっていた漫画をふと思い出しました。

 

下記にまとめがあります。

nlab.itmedia.co.jp

 

この漫画が言いたいことは、
『個性を若者は大切にしたいと思っているのに、社会がそれを殺す』
ということです。

例えば、学校では茶髪にしたいのに、黒髪にしないと怒られる。

企業の採用面接では個性を求めているくせに、実際は個性を求めずに周りの人と同じように歯車として動く人間を求めているのだ、と。

 

それが共感されてバズったのでしょう。

 

確かに、社会が個性を求めているかは議論があるでしょう。

 

ただ、個性は若者だけが欲するものではありません。
社会人である我々自身が、個性を求めています。

それは、『健全に働く』ということの条件ですらあるのです。

 

 

■アイデンティティを求め続けた学生時代

小学校、中学校、高校、大学。

人から見られた時に、個性的な人だな、と思われたいと考えていました。

 

いわゆるアイデンティティが欲しいというやつです。

 

 

小学校の頃、選択問題をみんなで解く、という形式の授業が結構ありました。

先生が4つぐらいの選択肢を出し、生徒たちがどれが正解と思うか、に挙手していく。

Aが正解だと思う人~、という先生の言葉に対して挙手していくわけです。

 

選択肢の中に、先生は明らかに正解っぽくない回答、を用意していました。

私は、とにもかくにも皆が選ばないであろう、その『外れ値』的な答えを選び続けました。

 

周りから、個性的と思われたかったからです。

恐らく、イタい奴、だったことでしょう。

 

 

中学に進むと、小学校の時のような、簡単なアイデンティティの取得は出来なくなりました。

授業やテストで変な回答をするわけにもいきません。

小学校に比べると、成績というものが重要になりましたから。

周りから見ると、目につかない地味な奴、になりました。

 

ですが、その時代は自身持つ個性に救われました。

足が速かったのです。

陸上部でそれなりの功績を収め、周りからは足が速い奴、という認識はされました。

ただそれだけですが、自分に誇れるものがある。

人にはない個性、アイデンティティがあると思えたのです。

 

 

とは言え、足が早いなんてのはさらに大人になるにつれ、アイデンティティとしては無意味になります。

高校になると、案の定アイデンティティなどなくなります。

足の速いだけの奴、なんて誰も認識すらしません。

私は一心不乱に陸上に人生を捧げたのですが、それは唯一のアイデンティティである足が速い、ということを確保したかったからなのかもしれません。

 

 

次に、大学ではクリエイティブな人間として振る舞いました。もはや陸上はやめましたから、次の個性を探したのです。

そして、痩せていたので、痩せていることをアイデンティティとして振る舞いました。

やけにタイトな服を着ていました。

それをアイデンティティとしたかったのです。

これまた、イタい大学生だっただろうと、振り返ると思います。

 

 

さらにアイデンティティの壁は立ちはだかります。

社会人になれば、大学までのアイデンティティなんてアイデンティティではなくなります。

 

痩せている、足が早い、それらはビジネスにおいては特徴とはなりえません。

役に立たないからです。

 

こうして、誰とも変わらない新社会人に私はなりました。

アイデンティティと自分で思えるものはなくなり、一兵卒になりました。

自分が何者か分からなくなるという感覚が、確かにありました。

 

これがモラトリアムの葛藤だったのだろうなぁ、と、今では思います。

 

 

若いときにはアイデンティティが欲しいものです。

ですが、社会に出て、一般化された世界に長く住み、そこまでアイデンティティを意識しなくなる。

長く生きれば、なんとなく人と差別化もされてくるし、人と比べようという気持ちも減ってくる。

モラトリアムを超えるとは、一般的にはそんなことなのではないかと、私は思います。

 

 

しかしながら、それでも社会では、違う形でアイデンティティを皆が求めているようにも思えるのです。

 

 

■社会人も個性的でありたいと願っている

先ほど述べたように、大学までのアイデンティティが社会ではアイデンティティではなくなってしまう理由は、ビジネスで役に立たないからです。

と言うことは、社会的なアイデンティティとはビジネスにおけるなんらかのスキルと言えるでしょう。

 

自分の居場所、自分が仕事を任せてもらえる領域。

自分が力を発揮して企業、社会に貢献できるポジション。

 

そういうものを、皆が欲しているように思います。

実際、コーチングをしていてもそういったものを欲する人は多くいます。

 

いわゆる、社会的に『自分が何者であるか?』という問いに答えられるようになりたい。

 

日本人である。

企業人である。

そんなものは何者かとは言えない。

大量に周りにいるから、満足できません。

 

周りに比べて、自分がだけが持つ何か。

これを認識して、組織に貢献できるように使うことが、スキルを活かす、ということです。

 

購買管理システムの技術担当である。

マネージャ候補の人材育成の担当である。

ITのWebインターフェース技術分野のライターである。

 

様々あると思いますが、『自分が何者であるか?』を自他ともに認められる形で、自信をもって語ることができる。

これが、社会的なアイデンティティであり、皆が社会的安住の地として求めているものなのです。

 

 

私もそうだったように、新社会人には得意なことが見えません。

ビジネスなんて知らないのですから。

どれだけ学生の時にビジネスのマネごとをしても、社会人として働く人間との間には、超えられない壁があります。

(そういう意味では、学生で企業しているような人は、アイデンティティがあると自負していることでしょう。)

 

だから、アイデンティティがなくなるように思えてしまいます。

これがモラトリアムの葛藤です。

 

学生が自分探しに悩むことも、社会人が自分の得意を把握できずに悩むことも、根源は同じということです。

 

自分が何者であるかを語れるようになることが、健全に、幸福に働くために必要なことなのです。

 

 

■何によって憶えられたいか?byドラッカー

ドラッカーがこう語っています。

 

自らの成長のためにもっとも優先すべきは、卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる。能力は、仕事の質を変えるだけでなく、人間そのものを変えるがゆえに重要な意味をもつ。能力がなくては、優れた仕事はありえず、自信もありえず、人としての成長もありえない。

  何年か前に、かかりつけの腕のいい歯医者に聞いたことがある。「あなたは、何によって憶えられたいか」。答えは「あなたを死体解剖する医者が、この人は一流の歯医者にかかっていたといってくれること」だった。

 

私が一三歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。「今答えられるとは思わない。でも、五〇歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」 

 長い年月が経って、私たちは六〇年ぶりの同窓会を開いた。ほとんどが健在だった。あまりに久しぶりのことだったため、初めのうちは会話もぎこちなかった。するとひとりが、「フリーグラー牧師の質問のことを憶えているか」といった。みな憶えていた。そしてみな、四〇代になるまで意味が分からなかったが、その後、この質問のおかげで人生が変わったといった。

  今日でも私は、この「何によって憶えられたいか」を自らに問い続けている。これは、自らの成長を促す問いである。なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けられるからである。運のよい人は、フリーグラー牧師のような導き手によって、この問いを人生の早い時期に問いかけてもらい、一生を通じて自らに問い続けていくことができる。

 

 

自分が何者であるか?は、ドラッカー風に言えば『自分が何によって人に憶えられたいか?』ということなのでしょう。

 

社会的アイデンティティとは、スキルであると私は述べました。

社会に対して、企業に対して、人に対して、自分の周りに対してなんらかの成果を上げ、貢献できるというものが社会的なスキルです。

 

ドラッカーの言うように、周りから何で覚えられたいかは、どんな貢献ができるかということなのです。

 

嫌なことで覚えられたくはないでしょう。

良いことで覚えられるには、貢献するしかありません。

 

自分は何によって貢献できるのか。

これを考えることが、社会的にアイデンティティを得て、健全に働くための一歩なのです。

 

★終わり★