凡人が成果を出すための習慣

残業ゼロで成果を出すには、どうしましょうか?

責任を取る、ということは森羅万象をなんとかするために生まれた人間臭い行動

こんにちは。

爽一郎です。

 

責任というものを、誰しも持っています。

私は、責任を取るということは、とても人間的で、尊敬できる行為だと思っています。

 

■物を無くしたのは誰のせい?

我が子の話をします。

4歳の娘と外出した時のことです。

 

私の子供は、おもちゃを外出時に持っていくのが好きです。

買い物にショッピングモールへ行くところだったのですが、その日も我が子はおもちゃを持っていくと主張したわけです。

そのおもちゃが、とても小さな小さなおもちゃでした。

具体的には「ここたま」という小さな人形です。

その人形自体は消しゴムぐらいの大きさです。そして、その人形が装着できるおしゃぶりがとっても小さいのです。

私は、それを持っていったら絶対に無くす、と娘に伝えました。

が、それは4歳には理屈が理解してもらえないので、まぁ、一度無くさせてみるのも学びかと思い、持っていくことを許可したのです。

 

そうして、ユニクロで買い物をしている間に、案の定無くなりました。

娘は泣きながら言いました。

 

自分のせいではない、と。

 

娘は、自分は何もしていない。勝手になくなったんだと主張しました。

まぁ、それは真実でしょう。

ワザと無くしたわけではない。それはその通りです。

恐らくは、気付かぬうちに、手をすり抜けて落ちたのでしょう。

だから、自分は何もしていないのに無くなった。それは、ある意味正しい主張なのです。

 

ですが、これは大人の視点で見ると、「無くしたのは自分の責任じゃん」になるのです。

 

■責任を背負うことは、人間らしい行動

事象だけ見ると、誰のせいでもないことなんてたくさんあります。

例えば、自然災害。雨が降っていて滑って足を踏み外す。

娘がおもちゃを無くしたことも、誰かが悪意を持って何かを行った結果ではありません。

事象だけみたら、誰かが故意に何かしたから起きたというわけではないのです。

 

悪人がいなくても、悪いことは起きます。

ですが、人間は物事をシンプルにして、感情の矛先を向けたい。

だから、故意でなくても悪いことが起きたときに誰かを犯人にするため、責任という概念を作ったのです。

 

干ばつや自然災害などは、誰も悪くなくとも起きる、悪いことです。(人間が原因となる温暖化が原因とかどうとかは、ここでは置いときます。)

大昔は、それを誰かのせいにするために、宗教などの概念を作り上げました。

人が正直でないから自然災害が起きるとか、あの男の行いが悪いから神を怒らせたとか、無理やり悪いことが起きる理由をつけて、シンプルにしようとしたのです。

 

政治においても、何か不手際があれば、故意に起こしたことでなくても大臣なんかが責任を追及されます。

そして、その大臣が責任を取ろうとしても、任命責任でさらに総理が責められる、なんてことすらあります。

 

元々、悪意がなくても人に迷惑がかかる出来事なんて溢れています。

事象だけ見たら犯人なんていない、誰も悪くないことなのです。

わざと苦しめようとしたわけではありません。

 

が、社会というシステムでは誰かが物事を進めなければならないし、悪いことには誰かが皆のために対策しなければならないのです。

それが、責任というものを生んだのです。

 

簡単に言えば、責任って、誰のせいでもないものを誰かのせいにするために生まれたものなのだと思うのです。

だから、主体的に「自分の責任だから」と言って、根源的には誰のせいでもないものを自分のせいにして物事をすすめる人々は、人間らしい行動をしているのです。

 

ようするに、ボランティア(自発的)で責任は取られている。

なんのために?なぜそんな苦しいことを?

前述したように、そうしなければ物事が進まないからです。

子供のように泣いて、誰かがなんとかしてくれるのを待っても生産性はないからです。

 

言い換えれば、成果を出すために責任というものをとる。

そんな人々に、私は尊敬の念を抱かずにはいられません。

 

 

★終わり★