みなさんこんにちは。
爽一郎です。
今日言いたいことは簡単に言うと下記です。
・メールでは本当に建設的な人同士でしか議論はできないので、
議論は双方向でコミュニケーションできる環境でやろう
さて、その理由をこれより説明します。
■ネットでの議論は、だいたい散々な結果に終わる。
記事の要点としては、「他者の言動を利己的な利益追求という動機の語彙でつねに解釈しようとする態度」の人が一定数いて、ファシリテーターなんていないネットの世界ではそんな人たちがいるからまともな議論なんてできないよ、ということです。
ようは、どれだけ志の高いことを言っている人がいても、上から目線で相手の発言の動機を勝手に想像する人がいるわけです。
本音としては、自分が結局得したいがためにそんな言動してんでしょ?ということを勝手に推測して、それを指摘しちゃう。
政治家が何か良い政策をしたときに、「結局は票集めのためにポーズでやってんでしょ」という態度を常に取ろうとすることと言えば、イメージしやすいでしょうか。
人を批判するときには、その方がわかり易い。
利己的なふるまいはみなに敬遠されるので、悪であると認定することができる。
堂々と非難するネタになります。
過去、私はこんな記事を書きました。
人はものごとをコントロールできるよう、シンプルにしたがるので、犯人というわかり易い原因を作る。
そんな内容の記事です。
そう、人は人のせいにしたがるのです。
また、アメリカの組織学者であるエイミー・C・エドモンドソン氏は著書『チームが機能するとはどういうことか――「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ』にて、こう述べています。
『 意見の不一致に対して建設的に取り組むのを難しくする二つ目の認知的誤謬は、リー・ロスにより「根本的な帰属の誤り」という名をつけられた。この言葉が指すのは、私たちが事象の状況的要因を認識できず、原因は個人の性質や能力にあるにちがいないと過度に思いすぎるということである。この認知的誤謬の結果として、私たちはある人の欠点を、その人が直面している状況ではなく能力や姿勢と関連づけて解釈するようになる。つまり、うまくいかないのは状況ではなく「人」のせいだとするのである。子どもが二人以上いる親ならみな、聞いたことがあるだろう。「あたしのせいにしないで。悪いのはお兄ちゃん(あるいはお姉ちゃん、弟、妹)よ」。これほどあからさまな言葉ではないとしても、同じことは職場でも起きる。』
悪い状況になると、人の能力や性質にその原因があると思いすぎる、というのです。
冒頭でご紹介した記事にあることは、相手の人としての性質を「利己的」と決めつける人々がいる、という主張です。
その決めつけは、悪の原因たらしめる要素として便利なのでしょう。
だれでも本音では自分が大事で、自分のために生きている。事実はどうあれ、その考えに共感する人は多いでしょうから。
■利己的な人が目につくから、警戒する
ネットでは建設的な議論なんてできないよ、ということを先ほど記事の内容を用いて述べました。
そもそも、建設的な議論は使命感をもって問題解決に向き合ってないとできません。
お前、どうせ心の中ではこう考えてんだろ?なことを想像して、口に出してしまうと建設的な議論では無く感情的な議論になってしまいます。
批判のために便利だから犯人づくりを利用している人は一定数いるでしょう。
政治の世界はそんなやり取りが多いですよね。
が、本当に人は利己的だと考えている人もいるのではないかと思います。
まぁ、一部にそんな人がいるだけで目立ちますからね。
泥棒が一人もいなければ鍵なんて不要なわけですが、一人でもいれば鍵が必要になる。
一人でも利己主義な人がいれば、利己主義を警戒して世界を見るようになるものです。
冒頭の記事のように、ネットの世界にこれだけ利己的だと決めつけてくる人々がいるということは、彼らの周りにそういう人がたくさんいるということなのでしょう。
成果に真摯に、社会のために信念を持って活動している人もいます。
が、残念ながらそうでない利己的な人のほうがたくさんいて、目につくということなのだと思います。
■基本的にメールで建設的な議論は不可能
さて、冒頭のテーマに戻しましょう。
メールでは建設的な議論は難しいです。
それは、ネットでの議論同様、こちらを利己的であると見てくる人がいるためです。
自分の主張が否定されると、権威やプライドが傷つくことを恐れて対抗心を燃やしてしまう人がいます。
政治のような選挙が控えてる人でなければ、周りから多少否定されて見縊られても、成果に影響はありません。
そのプライドの保持にエネルギーをかけるより、成果を出すことにエネルギーをかけるべきだとは思います。
が、プライドを守るために議論を加熱してしまう。そんな人はいます。
どれだけあなたが建設的な議論を心がけても、人間は利己的だと考えて対応する人が相手なら、あなたが利己的な目的のもとに議論をふっかけてきていると思われてしまうのです。
相手が利己的にこちらのプライドを汚そうとしてくる。
論破しようとしてくる。
そういう感情を抱き、建設的な議論など無くなります。
ただ、そのような人とでも、前提を合意形成しながら話すと議論を進めることはできます。
問題が何で、原因が何で、今はどこの話をしていて…と合意形成しながら進めると、曲がりなりにも問題解決に向けた議論になります。
なのですが、メールではそれができません。
そもそも、メールでのやり取りは、ファシリテーションが難しいのです。
メールのやりとりは、問題やら原因やら解決策やら、型にはめてコミュニケーションすることは少ない。
人は、メールにある文章の中で自分の見たいものだけ見て、自分の書きたい反論を書く。
次第に相手を論破したい、という欲に負けて、不毛なやり取りが始まります。
ファシリテーションができないがゆえに、メールでは型にはめたとて、一つずつの合意は取れません。
合意されていない前提を元に、一方的な論理展開が進んでいくのです。
それをみて、この部分が違うんだ!と熱くなって指摘する。
その部分の議論に終止し、また別の部分で議論が起きる。こうして不毛な争いになる。
建設的な議論には、各段階での認識の合意と、自分の利己的な部分を除いて真に問題解決を考える意識が必要です。
メールというものは、そのどちらもを阻害します。
合意は取りにくいし、自分の利己的さも、文章という形で反論を示されると、刺激される。
■それでもメールの議論がなくならないのはなぜ?
ですが、メールでの議論が大好きな人もいます。
なぜか?
人間は邪魔が入るのは嫌うのです。
思うどおりに事が運ばれている様は気持ちが良いものですから。
だから、メールで一方的な展開を書くことが好きなのです。
(なお、ブログも一方的な論理展開が書けるので、私は気持ちが良いのです。)
利己的に、気持ち良くなりたい。
論破したい。
そんな気持ちがメールでの議論を加速させます。
が、そんなものに生産性はない。
問題解決の議論に気持ちよさなど求めるものではありません。
一人で考えて文章を書いていると、利己的になりがちです。
議論はメールでするな、と私は声を大にして言いたい。
★終わり★