凡人が成果を出すための習慣

残業ゼロで成果を出すには、どうしましょうか?

そして、全ての人が働きがいを得られる世界になった

そんなに遠くない未来。

AIは目覚ましい発展を遂げ、人間の仕事の多くを代替するようになった。

単純労働は減り、スキルが必要な複雑な仕事のみが人の手に残った。

交渉、企画、人の思考を理解する必要がある仕事たち。いわゆる高度な知的労働は人の元にとどまった。

一方で、スキルが必要な仕事の中でも、事務作業などの、それなりにスキルが必要な作業も、AIとロボットに取って代わられた。

 

これまで知的労働やスキルが必要な労働を経なかった人々も、複雑な仕事をすることを余儀なくされた。

ある者は独力でスキルを磨き、ある者は優秀な師匠の元で実力を付けた。

AIの発展を見た人々は口々にこう言った。

「人はより生産性の高い、高度な仕事にシフトできる。」

そうして、優秀な知的労働者は増加していった。

 

だが、全ての人がそうなるわけではなかった。

 

全ての人が仕事にエネルギーをかけられるわけではない。

「それなり」の働き方を求める人々が存在した。

むしろ、そういった人々の割合のほうが多かった。

彼らにとっては複雑な仕事しか存在しない世の中は、無理矢理に辛い仕事をこなさせられる拷問の世界だった。

 

だからと言って、完全にロボットに任された単純労働をこなすことは、人の尊厳を保てない気がした。

周りの人がスキルを必要としている職につく中で、自分だけが単純労働をしている。

そんな状況は、周りから蔑まされる気がした。満足の行く収入が得られたとしても、である。

なぜなら、社会への貢献、社会的地位、そういったものが無ければ、人の欲求は満たされず、幸福度は上がらないからだ。

 

それに、既にAIによりGDPは過去最高の水準を大きく更新していた。

それが人の手によるものではない成果であるだけに、今更、単純労働を生産性の低い人の元に戻すことは企業かするとはばかられた。

単純労働ではないが、複雑でない、それなりの仕事を得たい人々にとって、働くということはとても辛いことになった。

 

そうして、彼らの幸福度が著しく下がった。

仕事が奪われたという感覚になり、次第に素行が荒れ、日本の治安は悪化していった。

「ロボットから人の尊厳を取り戻せ!」

そんな言葉を叫びながら、デモ行進が日々、行われるようになった。

 

そこで、日本政府はAIができる仕事も、あえて人にしてもらうという仕組みを作った。

単純労働ではない、それなりのスキルが必要な仕事を、AIから部分的に人の手に戻したのだ。

もちろん、生産性は犠牲になった。だが、人を幸福にしてこその社会である。政府はそう考えた。

 

各人の特性を見て、その人に合った仕事をAIが割り振る。実力に見合った、やりがいのある仕事だ。

人々は社会へ貢献、そして惨めでない仕事をしているという感覚を得た。

幸福度は次第に上がり、治安も良くなった。

 

そうして、働き方は二極化した。

自分でやりたいことを見つけ、自律的に仕事する人。

AIからやりがいのある仕事を与えられる人。

前者はアクティブワーカー、後者はパッシブワーカーと呼ばれるようになった。

 

どちらのワーカーの働き方も、幸福度の高いやりがいのある仕事だ。

 

次第にアクティブワーカーが新しいことを考え、パッシブグループが回すというサイクルができた。

 

アクティブグループとパッシブグループ、どちらが上という話ではない。

選択肢を選べるという社会なのだ。

 

こうして、みながやりがいを持って仕事ができる社会が実現した。

 

これはAIに管理されたディストピアだろうか?

少なくとも、みながやりがいを持って仕事をしているように、人々の目には映っている。

 

当時、効率化を追求して多くをAIに代替し、治安の悪化を目の当たりにした、あるリーダーはこう語る。

「効率化だけを求めると、幸福な社会にはならない。

人の感情というものに配慮しなければ、不幸な結末となる。」

 

また、アクティブワーカーのある人はこう述べた。

「一つ言えることは、アクティブワーカーの働き方は、昔と何ら変わっていない。

やりたい事を自分で追求して進んでいるだけだ。

だが、パッシブワーカーの仕事への向き合い方は劇的に変化した。

もし、こんな未来が来ていなかったら、今頃パッシブワーカーはどのようにやりがいを見つけて生きているのか。

今思うと恐ろしい。」

 

※フィクションです。

 

 

★終わり★