みなさんこんにちは。
爽一郎です。
悪いことが起きたときに、人を責めても、問題は解決しません。
なぜその問題が起きたのか、そこに着目しなければ物事は良くなりません。
過去、私はこんな記事を書きました。
『何か悪いことが起きたときに「全部上司のせいだ」とか「日本の政治家が全部悪い」とか「同僚のあいつが悪い」なんていう言葉がか交わされることがあるでしょう。
ですが、問題が起きたとき、犯人捜しをしても問題解決は難しいのです。
問題を「人」が原因ということにすると、解決方法はその人が変わること、ということになってしまいます。
人が変わることは難しいのです。外的要因で人を変えるなんて、金八先生なみにエネルギーを注がなければできないことです。
さらに、犯人を捕まえて排除したり、改心させたとしても、似たような人が存在する限りは、根本的には問題はなくならないでしょう。
他の人が問題を起こすことになるだけです。』
(記事から抜粋)
よって、問題は人ではなく構造にあると考えるべき。というのは私の主張です。
ですが、やはり人間は感情の生き物であり、それがゆえに人を責めてしまうのだ、ということを感じます。
■神戸の教師いじめ問題
神戸で起きた、教師いじめ問題が注目されていますね。
神戸市立東須磨小学校の教師4人が、1人の教師に対して日常的に暴言を浴びせたり、激辛カレーを食べさせる、被害者の車の上に乗るなどの嫌がらせなどをしていたという事件です。
ちなみに、私はいじめという言葉は曖昧なので好きではなく、これは強要罪や器物損壊と言った犯罪と捉えたほうが良いと考えています。
これらの犯罪は許すべき行為ではないです。
とは言え、その良し悪しを話をしたくて、今日この話を引き合いに出したわけではありません。
この犯罪そのものではなく、私は学校が行った保護者への説明会の音声をメディアが放送していた様に違和感を感じました。
メディアが放送していた内容としては、下記のようなものでした。
・学校が保護者側へ今回の事件について説明する会の、音声を編集して放送
・説明会には加害者の4名は出てこなかった
・保護者が学校側の態度に不満を抱き、激昂
「ここに4人を連れてきて謝らせるべきでしょう!」
「4人は療養中と言ってますが、かばってるんですか?」
そんな感じの言葉が保護者から学校側へ浴びせられた
・学校側は4人には事実確認を行っているところ、と述べた
保護者の気持ちは良く分かります。
加害者は悪いことをしたのに、メディアにもさらされず(まぁ、ネット上では結構つるし上げられていますが)十分な罰を受けていないように思える。
それを学校が罰を与えずにかばっているように思える。
悪い人間が罪を償わずに野放しになっていると言う状況は、たしかに耐えがたい苦痛を感じますし、そんな対応をする学校に自分のかわいい子供を預けるなんて、不安になります。
■正義がそうさせる
とは言え、私は先ほど言いました。
「保護者の気持ちも良く分かる」と。
これもまた、人間の特性の一つなのです。
「最後通牒ゲーム」という有名な実験があります。
『AさんとBさんの前に1万円があります。AさんとBさんはCさんにこの1万円をもらって二人で分けることになったのですが、Cさんは1万円を分けるときの条件を一つつけました。それは1万円をどう分けるかAさんが決めること、BさんはAさんの分け方が不満なら拒否できること。ただし、Bさんが拒否したら、AさんもBさんも1円ももらえません。Aさんはどのような分割提案をすべきでしょうか?
これは最後通牒ゲームというやや大げさな名前のついたゲームです。「論理的には」Bさんは分割提案を拒否してしまうと何ももらえないのですから、1円以上どんな提案でも拒否する理由はありません。つまりAさんが9990円をAさんに10円をBさんに分けるという提案をしたなら、それを拒否したら10円以下の0円の収入しかないのですから、それでも受け入れるべきです。
~中略~
実際にはAさんが極端に自分に有利な提案を行うとBさんの側は拒否することが多くなります。
~中略~
最後通牒ゲームの実験から判ることは、人間は自分自身が利得を得たいという気持ちと同時に、公正ではない相手を罰したいという欲求が強いということです。たとえ10円でも何ももらえないよりマシだという「理性」より、もっと本源的に公正でない相手を罰したいという思いを進化の過程で人間は身に着けているようなのです。』
(記事から引用)
簡単に言ってしまえば当たり前のことなのですが、ようするに、悪いことをしたのに罰を受けずにいる人を見ると、「ずるい!」と思うわけです。
私も、昔ヤンキーで人に迷惑をかけまくった人間が、まっとうに社会人として成功している姿を見たりすると、賞賛の反面、
「昔の行いをどう思ってるんだろう。償う気とかあるのかな。」
なんてことは考えたりします。
いわゆる、「正義」と皆が呼ぶもの。
これが、人を責めさせています。
■正義に燃えているうちは、論理的な考えはできない
そして、厄介なのはその感情が落ち着かないと、その先にある「論理的な考え」に移行できないのです。
まず感情がスッキリしていないと、建設的に考えることは難しい。
よって、神戸の事件においても、
「なぜこんな事件が起きたのだろう?広い視野で考えてみよう」
という問題解決より先に、
「悪である加害者に罰を与えよ!」
が解決しないと感情が落ち着かず、先に進めない。そんな状況になっているように思えます。
もちろん、保護者の中にも「そもそもなぜ、こうなったの?」という考えを持つ方もいたでしょう。
が、少なくともメディアの放送においてはそんな保護者の発言はカットされたのか、存在しませんでした。
さらに、メディアとしては正義の感情論をあおっているように見えました。
そのほうが、視聴者から共感が得られますから。
ビジネスにおいては、感情よりも論理性が必要になります。
一方、家庭経済においては、感情というか共感が優先されがちです。
建設的な問題解決の話ばかりしていると、家の中では正直疲れるなぁ、と言う気はしますね。
もっと感情に寄り添ってよ、と。
神戸の事件は、学校という、親からすると家庭経済の延長にあるものだった故、余計に感情が優先されたのかもしれません。
が、それでも思うのです。
人間はやはり、感情で動く生き物なのだなぁ、と。
そして、問題解決とは、それを理解した上でなければ、難しいものなんだなぁ、と。
★終わり★